佐田・真弓


欽明天皇陵
欽明天皇陵 近鉄飛鳥駅より北東へ歩いてほどなく、堀の水面に映える墳丘が見えてきます。これが、欽明天皇陵と伝わる全長138メートルの前方後円墳です。
 欽明天皇は、継体天皇とその皇后手白香皇女との子。在位中、仏教伝来、任那(みまな)の日本府滅亡などがありました。
 571年崩御、檜隈坂合陵に葬られ、また、612年(推古20年)皇后堅塩媛を合葬したことが、日本書紀にみられますが→関連史料のページ、橿原市にある見瀬丸山古墳を欽明天皇と堅塩媛の合葬陵とみる説もあります
■平成14年5月5日撮影■


天武・持統天皇陵
■平成14年9月21日撮影■
天武・持統天皇陵 欽明天皇陵から東へ歩いて15分ほどのところに、天武・持統天皇陵があります。
 686年(朱鳥元年)天武天皇は崩御、長い殯(もがり)の期間を経て、688年(持統2年)大内陵に葬られたと、日本書紀に記されています。
 その後、大津皇子の謀反、草壁皇子の死という出来事を経て、690年(持統4年)に天武天皇の皇后が正式に即位、それが持統天皇です。持統天皇は、697年に孫の軽皇子(文武天皇)に譲位。そして、701年(大宝元年)には遣唐使の再開、大宝律令の施行があり、その一年後、持統太上天皇は崩御、翌年、飛鳥岡で火葬され、天武天皇の大内陵に合葬されたと、続日本紀にみられます。→関連史料のページこのように持統天皇は天皇として最初に火葬された人物でした。
 1235年(文暦2年)の盗掘の記録である「阿不幾乃山陵記(あおきのさんりょうき)」に、墳丘は八角形で石壇をもち、五重であることが記されており、また、埋葬施設は横口式石槨で、中には天武天皇の棺と持統天皇の銀製の火葬骨蔵器が納められていたとされています。


文武天皇陵
 天武・持統天皇陵より南、飛鳥駅から歩いて15分ほどのところに、文武天皇陵があります。
 文武天皇は草壁皇子の皇子で、697年祖母の持統天皇の後継として即位。707年(慶雲4年)崩御し、飛鳥岡で火葬された後、檜隈安古山陵に葬られたと、続日本紀にみられます。→関連史料のページ
 このすぐ近くの中尾山古墳を、文武天皇の火葬墓と考える説もあります。
文武天皇陵文武天皇陵
■平成16年5月2日撮影■


桧隈寺跡
於美阿志神社・桧隈寺跡 桧隈寺跡十三重石塔
 桧隈は、百済から渡来した阿智使主が居住したと伝えられ、於美阿志神社はその阿智使主を祭神としています。桧隈寺跡は、その神社の境内にあり、塔・講堂と推定される建物跡をのこし、7世紀末の瓦が出土しているということです。
 「日本書紀」天武天皇朱鳥元年の条に「檜隈寺」の寺名がみえます。→関連史料のページ
 社殿の裏に石塔が立っていましたが、これは、平安時代に塔跡に造られた十三重石塔だそうで、一部欠けていて十三重ありませんでしたが、重要文化財に指定されていました。
檜隈廬入野宮趾
 また、境内に、左の写真のような標柱が立っていました。ここは宣化天皇の檜隈廬入野(いおりの)宮の跡でもあったようです。日本書紀にも、その宮の名がみられました。→関連史料のページ
■平成16年5月2日撮影■


檜前
檜 前
■平成16年5月2日撮影■


岡宮天皇真弓丘陵
岡宮天皇真弓丘陵 檜前から近鉄線の向こう西側に、佐田、真弓という地名があります。そのあたりに岡宮天皇真弓丘陵があります。
岡宮天皇真弓丘陵
 岡宮天皇とは、天武天皇の皇太子で持統天皇を母に持つ草壁皇子のこと。真弓丘陵に葬られたことが「延喜式」にみられます。有力な皇位継承者でしたが、天武天皇崩御後の689年(持統3年)、即位を待たずに若くして亡くなっています。文武天皇と元正天皇の父でもありました。天平宝字二年八月、岡宮御宇天皇の尊号を奉られたことが続日本紀に記されています。→関連史料のページ
■平成16年5月2日撮影■

束明神古墳
束明神古墳 岡宮天皇真弓丘陵の少し北、細い階段を上った小高い丘の上に春日神社という小さな社があります。その境内に、束明神古墳の立て札があり、また、石室内部の写真が掲げられていました。
 束明神古墳は、丘陵斜面をU字状に削り、その中心に墳丘が築かれており、埋葬施設は横口式石槨、凝灰岩の切石積で上部は家形、鉄釘や漆膜が出土していることから漆塗木棺があったと考えられています。棺飾金具や土器がみられ、土器や石槨の構造から7世紀後半から末頃の造営と考えられ、被葬者は、性別は不明ですが、年齢は青年期から壮年期と推定されています。
 この古墳が草壁皇子の墓である可能性が大きいといわれています。
■平成16年5月2日撮影■


 草壁皇子の死を悼む歌が万葉集に数多く収められていますが→関連史料のページ、それらの歌に、「嶋宮」「日之隈」「檀(乃)岡」「佐太(多)乃岡邊」などの地名がみられます。
 「嶋宮」(島の宮)は、現明日香村大字島庄、かつて蘇我馬子の邸宅のあった所で、後に草壁皇子が住んだ宮といわれています。
 草壁皇子の葬列は、島の宮から「日之隈」(檜前)の地を横切り、「檀乃岡」(真弓の丘)の最南部「佐太乃岡」(佐田の丘)に向かっていただろうことが想像されます。(参考文献:「万葉の飛鳥Cさひのくま桧の隈」犬養孝・著 季刊「明日香風」第4号所収)
佐田・真弓
佐田・真弓
■平成16年5月2日撮影■


マルコ山古墳
マルコ山古墳 マルコ山古墳は真弓丘陵の東西にのびる尾根の南斜面に位置しています。
 昭和52・53年および平成2年の発掘調査で、古墳は二段築成の円墳、墓室は凝灰岩切石を組み合わせた石槨で、床を含め内壁の全面に漆喰が塗られていたことなどが知られています。出土遺物には漆塗木棺の破片・釘・金銅製六花形飾金具・大刀金具などがあったということです。
 被葬者については、明らかではありませんが、皇族クラスの人物が考えられています。昭和59年束明神古墳の発掘調査の前は、このマルコ山古墳が草壁皇子の墓ではないかという見方もありました。
■平成16年5月2日撮影■



以上、解説文は、現地の解説板と明日香村のホームページのほか、奈良県立橿原考古学研究所刊行「天武・持統朝 その時代と人々」を参考にしました。


レンゲ



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